タイヤショップ池袋 その時にできる一番を

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カテゴリー: ディーラー, レポート

考えは柔軟に、決めたことはまっすぐに

 東京、池袋。都心部に位置する有限会社タイヤショップ池袋は、創業昭和36年の老舗だ。従業員3名の同店は、前身から含めると85年の歴史を持つ。長い歴史の中、大きな時代の転換期を何度も乗り越えてきた同店の姿勢をうかがった。

 小野寺邦雄社長は、戦前戦後からの激動の時代を乗り越え、60年以上ビジネスを続けてきたコツを「その時その時でできる一番をやってきた。自分で考えて、自分で決めて、決めたら信じてやり通す。その繰り返し」だと話す。

タイヤショップ池袋
交通量の多い国道に面した店舗

 同社の歴史は長く、その前身は昭和6年から7年頃までさかのぼる。社長の父が文京区で個人商店を開業したのが始まりだ。戦後間もなく、当時土地が広かった豊島区へと移転。しかし最初の店舗はオリンピック道路の整備のため再度の移転を余儀なくされ、現在の店舗へと移った。

 移転当時は折しも再生タイヤブーム。埼玉にリトレッド工場を持ち、そちらを本店として、現在の店舗の場所は倉庫として機能させ、営業を行っていたという。

 「昔はタイヤ屋さんではなくパンク屋さんと呼ばれて、一日50本以上のパンク修理をしていた」

 タイヤの修理に必須であるゴムは、戦後しばらくまで配給制だった。この配給を管理していたのが現在の全国タイヤ商工協同組合だ。社長の父も副理事長を務め、物資が乏しく厳しかった戦後を乗り切ってきた。

 その後ラジアルタイヤが登場し、時代はパンク修理から再生タイヤへと移り変わる。

 「ラジアルタイヤの登場の次に転換期と感じたのは、オートバックスのような店舗の登場。これは大きい影響だった」

 土日祝日も営業する店舗との様々な面での競争という局面に立たされた。

 その次にはリースという販売形態の登場。企業が保有する車両がリース販売になることで、タイヤや整備に関する発注者が変わり、数十台分の契約が一度に終了することもあったという。

 さらに今はインターネット上の市場との競争が登場した。

交通量の多い国道に面した店舗
小野寺邦雄社長(右)。左は子息の邦高さん

 「お客様の層も要望も、時代が変わるたびに本当に大きく変わっていく。次はどうなって行くのか、それが楽しみでもある」

 パンク修理、リトレッド、企業への大型納入。さまざまな商売を手がけてきた同社は現在、外車ディーラーを中心に19から21インチを多く扱っている。一本あたりの単価が高い物が多く、交換などは主に息子の邦貴氏がおこなっているそうだ。

 「ベンツの純正ホイールは高額なものが多いだけに、量販店では対応を嫌がる。そういう高級車でも、ディーラーから依頼を受けてうちで引き受けている」

 その技術は定評があり、ディーラーからの口コミで新しい依頼に繋がることも多い。

 「その時代で一番だと信じたことをやる。やらなきゃいけないと決めたら曲げない。誰に聞いても決めるのは自分。考えは柔軟に持って、決めたことにはまっすぐに」

 大きな転換期が来た時、一番正しいと信じたら躊躇はしないという。

 「実はここもすでに移転が決まっている。オリンピックで一時的に計画が止まっているが、10年以内には新しい場所への移動を考えている。どんな店になるかは、いざその時になってみないとわからない」

 そう楽しげに話す社長は、ネットや海外も視野に入れている。新しい場所に移転して条件が整えば、やりたいと考えていることはいくつもあるという。

 「昔からの顧客も多いが、土地柄と時代もあってどんどんと入れ替わる客層が大半。新しい顧客もどんどん移り変わる。現金でスピード感のある商売をしていく。そういう時代だね」

 同社は今後も、店舗地域に根ざした顧客を大切にしながらも、広い視野を持って、次の時代も挑戦していく。


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