ファンづくりの要は信頼 川村タイヤ寝屋川営業所

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カテゴリー: ディーラー, レポート

担当者に楽をしてもらうタイヤ店に

 今回訪問したのは川村タイヤ寝屋川営業所。ミスタータイヤマン寝屋川の店舗名も併せて掲げている。店の所在地は寝屋川市堀溝2丁目5番11号。川村幸作さんが代表を務める。

(左から)尾瀬さん、川村社長、矢田さん

 寝屋川市は府の北東部に位置する。守口.枚方.大東.門真.四條畷.交野とともに北河内地域7市を形成する市として、古くから文化.経済を担うエリアだ。

 国道163号線に面したロードサイド店。大阪市内から奈良.生駒や京都.木津川を通り三重県の伊賀や津へと至るルートであることが関係するのだろう、クルマの通行量は絶えない。中でもトラックが非常に多い。このことは同店のユーザー構成に大きく影響しているようだ。

 川村タイヤの創業は1958年。先々代が親戚筋の営む大阪市内のタイヤ店で働き、その後独立し同社を興したという。府内には老舗のタイヤ店が多いが、同社も長く歴史を積み重ねてきた店の1つだ。

 本店は大阪市都島区都島本通。かつては製紙工場や乳業の工場などが数多く建ち並ぶ地域だったことから、その物流を支えるタイヤ店として強い存在感を示していた。

 だが、それらの大手企業が軒並み郊外へと転出。その影響などから、本店は10年ほど前、タイヤ店としては閉じることを先代が決意し、経理事務機能のみをそこに残した。

TBをメインに、ORやIDなど生産財タイヤを幅広く手掛ける

 一方、寝屋川営業所は20年ほど前にこの地に開業。スタッフ数は5人。川村幸作さんは3代目に当たる。取材した日の前日に満42歳の誕生日を迎えたばかりだった。大学卒業当時、既に就職先が決まっていたが、家の事情からそれを辞退しなければならず、そのまま入社することとなったという。

 川村タイヤは会社創業から今年でちょうど60年。人(ひと)で言えば還暦を迎えたこととなる。その大きな節目の年に、幸作さんの父であり先代の代表だった川村芳人さんが亡くなった。先代から引き継いだこの店を守り、いかに発展させていくか。幸作さんは強い眼差しで前を見つめている。

 幸作さんによると、ユーザーの多くを生産財タイヤが占める。TBをメインにOR、フォークなどのIDなど多種にわたる。同店の界隈、10分圏内にはタイヤ取扱店が7店もあるという。かなりの激戦区だと言える。

 ユーザー層の大半が物流の運送トラック。それにダンプ。大手自動車部品メーカーが寝屋川市内に本社を構えるなど物流拠点が多い。一見(いちげん)を含め、国道163号線を利用する法人ユーザーやトラックドライバーに広く知られる存在となっている。

川村タイヤ寝屋川営業所
川村タイヤ寝屋川営業所

 他店といかに差別化を図っているのか。幸作さんに訊くと、「運送会社のタイヤ担当の方に楽をしてもらうタイヤ店になること」だと答えてくれた。「それはお客様の言いなりになるのとは違います。川村タイヤが言っているのなら間違いない、タイヤに対する仕事は川村タイヤに任せておけ。そう言われるよう、信頼される仕事をする。その仕事を通じてお客様が川村タイヤのファンになっていただけるよう努めています」、このように続ける。

 例えばこのようなことがあった。会社からの指示でタイヤ交換をしに来店したトラックドライバーがいた。その摩耗状況をチェックしたところまだあと1年はじゅうぶんに走れると幸作さんは判断。その旨を説明し納得してもらった。

 それから1年後、そのドライバーが再び来店した。「あの時、お兄ちゃんがそう言ってくれたから」との言葉を添えて。「そのときはそのようなことがあったのも忘れていましたが。ですが、こういうことは多々あります。自分の儲け、目先の利益ばかりを考えていたのでは商売は長続きしません」、エピソードを交え、自身の商売に対するスタンスを紹介してくれる。

 「われわれが一番嬉しいのは、仕事をして代金をいただくときに、『いつもありがとう』と、お客様に言っていただけること。お金をいただいて、お客様からそう言われるのは理想の関係だと思います」

 タイヤ店はユーザーとフェイス・トゥ・フェイスで接する現場。そこでの仕事を通じて得られる充実感こそが、生産財タイヤのビジネスでもっとも重要なのだ。


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