東洋ゴム工業 仙台工場 東日本大震災からの復旧

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カテゴリー: 3.11, 特集

 東日本大震災で被災し一時操業停止を余儀なくされたタイヤ工場、東洋ゴム工業の仙台工場は、早期に震災前の水準まで操業度を回復した。そこには工場長をはじめとした工場幹部の的確な判断や多くの従業員の結集があった。震災発生時には何が起きていたのか、またどのように復旧を成し遂げたのか――現地を訪ね、工場が完全復旧するまでの過程を追った。

 震災の12日後に生産ライン再開

 東洋ゴム工業の仙台工場(宮城県岩沼市)は、乗用車・ライトトラック用(SUV用)タイヤを生産する同社の主力工場。輸出用を中心に北米で人気の高いNITTOブランドの大口径タイヤなども生産している。協力会社の社員を含め約1700名の従業員が3直2交代で勤務にあたっている。

仙台工場の伊藤晃総務部長と磯部典幸工場長(右)
仙台工場の伊藤晃総務部長と磯部典幸工場長(右)

 3月11日、工場がある岩沼市は震度6強の強い揺れに見舞われた。「長い揺れが5分位続き、途中で停電した。揺れも強くこれはただ事ではない」――磯部典幸工場長は、震災発生の瞬間をこう振り返る。当時、工場内には約700名の従業員がいたが、全員が速やかに避難場所である食堂前広場に集合、わずか15分で点呼を完了した。スムーズに避難を行うことができたが「その後どうするべきか?」判断が難しかった。

 停電のため、カーナビや携帯電話のワンセグTVから情報を得るのが精一杯の中、15時30分頃に沿岸部へ津波が押し寄せた。比較的内陸部にある工場からは津波は確認できず、実際どうなっているのか知るすべもなかった。

 余震が続き、16時近くになっても大津波警報が解除されない中、従業員の間にも不安が広がってきた。工場の外を見ると、すぐ近くを通る国道4号は全ての信号が消え、大渋滞が発生していた。

 「停電の中、日が暮れる前に帰宅させなければ大変なことになる。これ以上は待たせられないと判断し、帰宅指示を出した。結果的に正解だったが『もし第二波が来ていたら』と思うと恐ろしい」

 震災発生から約2時間後の17時には全員の帰宅を見届け、その後、工場に残った管理職が対策本部を立ち上げた。磯部工場長は「まず従業員の安否確認を最優先に進めよう。周りの状況からも復旧は焦る必要はない。安全重視で進めていこう」と話した。
 この時点で、従業員約1100名の安否が不明だった。

 震災翌日の12日、早朝から対策本部に加えて、約100名の従業員が参加して本格的な安否確認活動を開始した。1グループ4~5名で構成するグループを5班編成し、大きな被害を受けた地区の役所や避難所を巡回した。併せてこの日から連日、1日3回のミーティングを実施、「全員のベクトルを同じ方向へ合わせるため」磯部工場長が直接指示を出した。

 被害の大きさが明らかになるにつれ、報告される内容に愕然としたという。ある従業員はそれを「地獄のような状況」と表現した。被災者の多くは津波を被っていたが、暖房はもちろん身体を暖めるための毛布も無い。報告を受けた磯部工場長は、工場にある灯油ストーブや毛布など全ての備品を避難所に届けるように指示した。

 「あるものを全部届けろと。今、出さずにいつやるのかという気持ちだった」。同じ頃、大阪本社から救援物資を積載したトラックが出発したと情報が入った。「明日になれば我々には大阪や東京から物資が届く。だから今あるものは、避難所へ持って行かせた。あちらでは大変な思いをしている方がたくさんいる」

 当初、従業員の安否確認は難航していたが、3月15日頃から電話が繋がるようになり、16日の時点で18名まで絞り込むことができた。結果的に従業員の被害状況は、死亡3名、行方不明1名、負傷4名、従業員の家族死亡17名。404名の従業員宅が家屋の損壊や浸水など被害を受けた。従業員の4人に1人が何らかの被害を受けたことになる。行方不明の1名は、自宅にいて津波に遭い、現在も発見されていない。「何度も捜索に行ったが、残念ながら見つからなかった」

 安否確認と平行して工場再開に向けた復旧作業も着々と進められていた。3月15日に電力が復旧し、地下水のポンプアップが可能になった。本社から設備保全の担当者らが応援に駆けつけ、18日にはボイラーを再稼働、一部設備の試運転を開始した。


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